記事: ハイカー根津の HIKER'S DELIGHT Vol.9 「日本の歩き旅の可能性」
ハイカー根津の HIKER'S DELIGHT Vol.9 「日本の歩き旅の可能性」


前回、前々回の「日本にロングトレイルは必要か?」では、アメリカ発祥のロングトレイルの成立史を制度的、文化的側面を中心に紐解き、Vol.8では「日本版ロングトレイル」の現状に対する違和感と、それを受けた日本における「歩く道」の可能性について再考し始めたところで終わった。
今回は日本の歩き旅の可能性を、具体策に言及しながら、より深掘りしてみたい。
アメリカのロングトレイルと日本の歩き道。このふたつを並べて考えたとき、単純な優劣ではなく、それぞれが持つ背景や性質の違いが見えてくる。
両者の違いの中にこそ、日本のロングトレイル的な歩き道の価値が隠れている。そう思うのだ。
ロングトレイルの核となるもの
アメリカのロングトレイルは、何よりもまず「自然を楽しむこと」が核にある。
もちろん、トレイルタウンでの交流や、ハイカー同士の出会いに魅力を感じる人も多いだろう。でも、それらはあくまで自然体験の延長線上にある副産物だ。広大な自然の中を歩くという圧倒的な体験がなければ、ここまでの文化にはなっていないはずだ。

実際、アメリカのロングトレイルの歴史を振り返っても(詳しくはvol.7の記事を参照してほしい)、その中心にあるのはつねに自然だった。人は、ただ景色を見るためではなく、自然を味わうことを求めて歩いている。
そしてもうひとつ重要なのは、隔たりがあること。長期間にわたって人里を離れ、文明から距離を置く。その環境そのものが、ロングトレイルの価値を高めている。言い換えれば、非日常の純度が非常に高い。
アメリカにはない日本特有のフィールド
その文脈に倣うように、日本でも「ロングトレイル」と名付けられた道が増えてきた。ただ、これがアメリカのように文化として定着し、多くの人が長期間歩くようになるかというと、僕は少し懐疑的だ。
それは、日本のトレイルが劣っているからではない。むしろ逆だ。
日本の歩き道は、アメリカのそれとはまったく別の魅力を持っている。にもかかわらず、ロングトレイルと同じ枠組みで語ろうとすることに、違和感があるのだ。

では、その違いはどこにあるのか。
僕は、歩くフィールドの構造にあると考えている。
過去記事でも書いたように、そもそもロングトレイルはハイキングトレイルであり、そこを歩く人はハイカー(ハイキングをする人)と呼ばれる。
つまり、ロングトレイルとは、そもそも自然の中を歩くこと(ハイキング)を前提とした文化だ。長期間にわたり、人里から距離を置き、自然の中に身を置きつづける。その体験こそが価値の中心にある。
一方で、日本の「ロングトレイル的な歩き道」はどうだろうか。実際に歩いてみるとわかるが、ロード、つまり舗装路の割合がかなり高い。山道だけで構成されているわけではなく、むしろ集落や町をつなぐように道がつづいている。

それはつまり、ハイキングトレイルとは少し違うということだ。言い換えれば、そこにはハイキングとは異なる歩き旅としての区間が多分に含まれている。
この違いは、実はとても大きい。なぜなら、日本の歩き道は、普段ハイキングをしていない人や、そもそもハイキングに興味がない人でも楽しめる構造になっているからだ。
山を歩く装備やスキルがなくてもいい。トレーニングをしていなくてもいい。ただ歩くことができれば、その道に入っていける。
登山道、お遍路、街道……それぞれの道が持つ役割の違い
そして、この違いを踏まえると、すでに日本にあるさまざまな「歩く道」に関しても、それぞれの役割というものが見えてくる。

とにかく自然を楽しみたいのであれば、日本にはすでに登山という選択肢がある。これほど身近にたくさんの山があり、整備された登山道があり、自由に出入りできる環境がある国は珍しい。
パーミット(許可証)もほとんど必要なく、思い立ったらすぐに山に入ることができる。実際、富士山には海外から多くの登山者(観光客)が訪れているように、インバウンドの観点から考えても日本の山はそれ自体が魅力的なコンテンツだ。

一方で、文化や歴史を味わいたいなら、お遍路や街道、交易路などがある。そこにはすでに、何百年とつづく歩く理由がある。
では、いま日本に増えている「ロングトレイル的な歩き道」は、何を楽しむためのものなのか。ここが曖昧なままだと、どうしても伝わりにくくなる。
「ロングトレイル的な歩き道」の楽しさとは?

この曖昧さは、伝え方の問題とも考えられる。僕は以前、長らく広告業界でコピーライターをしていた。そこで徹底的に叩き込まれたことのひとつが一点訴求だ。あれもこれもと魅力や特徴を詰め込んだメッセージは、結局何も伝わらない。幕の内弁当になるな、と上司によく言われた。
日本の歩き道にも共通する部分があると思う。自然も、文化も、歴史も、人との出会いも……すべて魅力ではある。でも、それを並べただけでは「だから何?」で終わってしまう。
では、登山でもなく、街道歩きでもない「ロングトレイル的な歩き道」の価値とは何か。僕はそこに、「土地を知る」という要素があるのではないかと考えている。

登山は自然を深く味わう行為だ。お遍路や街道歩きは、文化や歴史を辿る旅だ。
でも、「ロングトレイル的な歩き道」は違う。自然も、文化も、歴史も、人の営みも、それらが混ざり合った土地そのものに触れることができる。
たとえば、朝は人の気配のない山の懐に分け入っていき、昼には集落に降りて商店で補給をする。午後は田んぼのあぜ道を抜け、夕方には小さな町にたどり着く。一日の中で風景が何層にも変わっていく。その移ろいこそが、日本の歩き道の面白さだ。
断片ではなく、連続的なものとして土地を体験する。それを五感で味わっていくのが、日本の歩き旅なのではないだろうか。もちろん、伝え方だけで解決できることではないが、ここに打開策のひとつの糸口があるように思う。
その土地と深く関わるということ

ここでひとつ、旅について考えるうえで興味深い視点を紹介したい。
近年の観光研究では、観光のあり方そのものが変化していると指摘されている(ここでいう観光は、いわゆる観光地巡りに限らず広い意味での旅も含んだものである)。
たとえば、観光は異文化や他者を見つめる行為ではなく、ある種のパフォーマンスとして捉えられ、写真を撮ったり共有したりといった行為を通じて、自分自身をどう見せるかという側面を持つようになっている。そうした環境やメディアの影響のなかで、観光を「自己を見つめ、自分自身を確かめる行為」として楽しむ人が増えてきている、というのだ。(※)
ロングトレイルをはじめとした歩き旅においても、どれだけ遠くまで移動したとしても、いろいろなものに触れたとしても、そこで体験しているのはその土地そのものというよりも自分自身なのかもしれない。
※ 参考文献:『観光のまなざし』増補改訂版(ジョン・アーリ,ヨーナス・ラースン 加太宏邦 訳 / 法政大学出版局)、『「観光のまなざし」の先にあるもの ― 後期観光と集合的自己をめぐる試論』(山口 誠・2017)

そう考えたとき、逆に日本のロングトレイル的な歩き道は、その土地そのものを味わう楽しみ方(旅のあり方)のフィールドとして適しているのではないだろうか?
アメリカのロングトレイルのような圧倒的な自然があるわけでもなく、日本の既存の歩き道のような名所旧跡が多いわけでもない。完全な無人地帯が長くつづくことは少なく、里山や集落を通りながら歩き、ごく普通の人の暮らしに出会う。
道端の無人販売所、庭先で作業をしている人、夕方の買いもの帰りの軽トラック。そうした風景の中に、自分が入り込んでいく。
ときには言葉を交わし、ときにはただすれ違うだけかもしれない。それでも、その土地の温度のようなものは、確実に身体に残っていく。そして、移動を優先するのではなく、できるだけその土地に留まろうとする意識が、そうした関わりを生みやすくするはずだ。
柔軟性から生まれる "関わりしろ"
その土地に留まろうとする意識——。"歩き旅" なのに矛盾しているのではないか、そう思う方もいるかもしれない。ただ、一見食い違っているようなことが、日本のロングトレイル的な歩き道の活路になりうるのではないかと、僕は思っている。
ひとことで言ってしまえば、「道や計画の柔軟性・多様性」に着目することが鍵になる。
一例として、以前、僕が滋賀県北西部にある中央分水嶺・高島トレイルを歩いたときのエピソードを紹介する。
滋賀、福井、京都の境に横たわり、計12個の山を越えていく全長80kmの道のり。かつては近江商人の交易路としても使用されたこのトレイルの全行程を歩くには、3泊4日もしくは4泊5日を要する。僕もいずれかの日程で歩き終える計画だった。
ただ、普通に歩いてしまうとこの高島という土地の自然しか味わうことができない。そう思った僕は、計画を変更して寄り道をすることにした。80kmのほぼ中間地点にあたる水坂(みさか)峠から、琵琶湖北西岸のほとりに位置する今津町(いまづちょう)に降りることにしたのだ。バスでたかだか20分程度である。
今津町で地元の人たちに交じって日帰り入浴をし、昭和の風情が残るローラン名小路(めいしょうじ)商店街を散策し、食堂で夕食を食べ、たまたま見つけたキャンプ場でテント泊をした。そして翌朝、バスで水坂峠まで戻りふたたび歩きはじめた。
この経験は、その土地を味わうという意味でとても有意義だったし、純粋に楽しかった。
たとえば、こういう "関わりしろ" の大きさこそが、日本の「ロングトレイル的な歩き道」の面白さだと思うのだ。

「ロングトレイル」や「ハイキング」という言葉に縛られる必要はない
アメリカのロングトレイルを参考にすることに異論はない。でも、それをそのまま日本に当てはめることには無理がある。
むしろ、日本には日本の歩き方がある。山だけでもない、歴史だけでもない、土地そのものを感じる歩き方。
ロングトレイルや長距離ハイキングという言葉やスタイルに縛られる必要はない。歩く距離や日数よりも、どれだけその土地と向き合えたか。どれだけ、その土地の空気を吸い、その土地の時間の流れに触れられたか。
それこそが、日本の「ロングトレイル的な歩き道」の価値であり、これから再定義していくべき「歩く理由」のひとつの方向性なのではないだろうか。
と、もっともらしいことを書いたが、最後にあらためて肝に銘じておきたい内容を再掲して、本稿を締めくくりたい。
意義や価値があるから人は道を作るが、その意義や価値そのものに惹かれて人は歩くわけではない。登山にしろ古道にしろ街道にしろ街歩きにしろ、多くの人がそこを歩くのは、ひとえに楽しいからに他ならない。どれだけ立派な理由や目的が掲げられていても、歩く楽しさが見いだせなければ、人は歩かない。

根津 貴央Takahisa Nezu
ロング・ディスタンス・ハイキングをテーマにした文章を書き続けているライター。2012年にアメリカのロングトレイル『パシフィック・クレスト・トレイル(PCT)』を歩き、2014年からは仲間とともに『グレート・ヒマラヤ・トレイル(GHT)』を踏査するプロジェクト『GHT project』を立ち上げ、毎年ヒマラヤに足を運ぶ。著書に『ロングトレイルはじめました。』(誠文堂新光社)、『TRAIL ANGEL』(TRAILS)がある。2025年4月ネパールに移住。現在、カトマンズ在住。











