記事: ハイカー根津の HIKER'S DELIGHT Vol.11 静岡天竜・祈りの山と祭を歩いて結ぶ(後編)
ハイカー根津の HIKER'S DELIGHT Vol.11 静岡天竜・祈りの山と祭を歩いて結ぶ(後編)


前編では、僕にとっての「日本での新しい歩き旅」をどのように発想し、ルートを組み立てていったのかを書いた。
後編となる今回は、実際の旅の記録である。舞台は、静岡県西部を流れる天竜川流域の山間部。
旅は秋葉山から始まる。火伏せの神として知られる秋葉神社に表参道から登り、そこから天竜川の東側の山々を北へと向かう。山住神社を経て水窪(みさくぼ)へ下り、かつて遠州と信州を結んだ秋葉街道をたどりながら、静岡・長野県境の青崩峠を越える。そして最後は、遠山郷で何百年も受け継がれてきた霜月祭へ。
前泊を含めて3泊4日。総距離は約70キロメートル。興味のある場所を自分の足でつないでいく。頭の中で描いた旅を実際に歩いてみたら、何が見えてくるのか。
古道に重なる時間を歩く

秋葉山の表参道を登り始めると、常夜灯が現れた。ひとつ通り過ぎると、またひとつ。その昔、これだけ多くの灯りが必要だったということは、それだけ多くの人がこの道を歩いたのだろう。
山頂には秋葉神社があった。金色に輝く幸福の鳥居をくぐり、社殿へ向かった。ここから先の旅が無事であるよう手を合わせる。参詣であればここで終わりだ。でも、僕の旅はここからだった。

遠州と信州を結んできた秋葉街道を北へたどりながら、自分が興味を持った場所を自分の足でつないでいく。うまくいくかどうかはわからない。むしろ、わからないからこそ歩いてみたかった。
前編に書いたように、僕は計画段階で『古道案内 信仰の道 秋葉街道』(白馬小谷研究社)を読んだ。この本を参考に地図を眺め、歩く道を考えていた。ところが、秋葉神社をあとにしてほどなく、分岐点で僕は本に載っていたルートから外れた。
明確な意図があったわけではない。なんとなく山深い道を選んでみただけである。進んだのは奥ノ院街道と呼ばれる道だった。ただし現在、この山域にはスーパー林道天竜線が通り、古い道の多くは車道になった。舗装路を歩くしかないか……そう思っていたら、道の脇に古びた道標が立っていた。「秋葉道・塩の道踏査研究会」。秋葉街道から外れたかと思っていたが、ここにも「秋葉道」の文字がある。僕は道標に従って、山の中へ入っていった。

しばらく歩くと、今度は「一杯水」と書かれた看板が現れた。江戸時代後期の地誌『遠山奇談』にも記されている湧き水だという。旅人が手ですくって飲む。すると水はまた元の高さまで戻る。けれども、どれだけ待っても柄杓一杯に満たないほどしか溜まらない。だから一杯水と呼ばれるようになった。実はこの山域にはほとんど水場がない。江戸時代、秋葉山から北へ向かう旅人にとって、ここは貴重な水場だったのだ。
そこからさらに北へ進む。竜頭山(標高1,352m)まで、あと数百メートル。そのとき、雪が降ってきた。最初はすぐやむと思った。ところが、やまない。むしろ強くなる。もう少しで竜頭山の麓にある避難小屋が見えてくるはずだ。しかし、そこまで行く時間はなさそうだった。雪の山での「もう少し」は、あまり信用しないほうがいい。過去の経験からそれはわかっていた。今日はここまでだ。急いで山中にテントを張った。ビバークである。
予期せぬ事態で息があがっていたが、寝袋に入ってしばらくしてからようやく落ち着きを取り戻した。自分で道を選ぶ自由がある一方で、自然の中では自分の思いどおりにはならない。そんなことを考えていた。
翌朝、雪は止んでいた。荷物をパッキングして歩き始める。「天竜の森 避難小屋」が現れ、その先からふたたび舗装路になった。水窪町(みさくぼちょう)に入る。

前方に山住神社が見えてきた。入口に鎮座する一対の像は、狛犬かと思ったらオオカミだった。かつて山村にとってオオカミは、鹿やイノシシから畑を守ってくれる存在だった。ここではお犬様と呼ばれ、信仰されたそうだ。
さらに、徳川家康にまつわる話も残っていた。三方ヶ原の戦いで武田軍に敗れた家康がこの山へ逃れたところ、オオカミが一斉に吠えて追手を退けた。その礼として、家康が刀を奉納したという。
歩けば歩くほどに、知らなかった歴史や物語が現れてくる。何百年も前に誰かが歩いた道を、いま自分も歩いている。いつの間にか僕は、その時間をたどるように歩くことに夢中になっていた。
秋葉街道は塩の道でもあった

山住神社から麓へ向かう舗装路を歩いていると、「山住街道登山道」という表示があった。入っていくと、山住古道と呼ばれる道だった。
この道には、徳川家康も山住神社への参詣で通ったという伝承が残っている。途中には「徳川家康 腰掛岩」まである。本当に座ったのだろうか。そんなことを思いながら急な山道を下っていくと、狭い谷筋に人家が見えてきた。河内浦(こうちうれ)という山住神社の麓にある、まるで隠れ里のような集落だった。
県道ができる以前は、ここから山住神社へ徒歩で登るのが普通だったそうだ。僕にとっては山から下りてくる道だったが、かつてはここから多くの人が山住神社へ向かって登っていった。

さらに北へ進むと谷は狭く、両岸から山が迫ってくる。川沿いのわずかな土地や、山の斜面に小さな集落が点在している。やがて谷底が少し広がり、家が増えてきた。向市場(むかいちば)だった。ここから水窪の中心部へ入っていく。
歩いていると、「塩の道」という看板があった。秋葉街道は、秋葉山へ向かう信仰の道。それが僕の出発前の認識だった。しかし、江戸時代から明治にかけて、この道は遠州と信州を結ぶ交易路でもあった。海側から塩や海産物が運ばれ、山側から木材や炭などが運ばれたという。そのため、水窪は宿場町として栄えた。道があったからこそ、人が泊まり、物を売り買いし、荷を積み替える。交通が町をつくったのだ。
町を歩いていると、「みさくぼ交流所」という古い建物があった。入口には大きな木彫りの熊が立っていて、「まねき熊 ようこそみさくぼへ」と書かれていた。僕は熊に招かれるように中へ入り、一冊の地図を手に取った。『みさくぼ 山登りマップ』。知らない山道がいくつも載っている。無料配布だったので、とりあえずザックに入れた。
8軒だけの村に泊まる
宮本常一の『私の日本地図① 天竜川に沿って』(未来社)にも、かつての水窪の様子が詳しく書かれている。ただ詳細に記されているのは主に中心部で、離れたエリアは地名が出てくる程度だった。
僕は今回、その名前しか出てこなかった大沢という集落に泊まることにした。水窪の中心部から東に10kmほど離れた山腹にある、宮本も語っていないこの小さな集落が、なぜか気になったのだ。

タクシーに乗り、行き先をつげる。町を離れ、山道を上っていく。斜面はどんどん急になる。こんなところに本当に人が暮らしているのだろうか。
着いてみると家があった。農家民宿「ほつむら」。宿を営む藤谷さんは当時70歳。聞けば、大沢集落には昔から8世帯しか住めないという決め事があるそうだ。ただ、現在は過疎化が進み、暮らしているのはたった4世帯だけ。
「この集落では70代が若手だよ」藤谷さんは笑う。

かつては、ここでも祭が行なわれていたそうだ。釜で湯を沸かし、無病息災や五穀豊穣を願う「湯立神事」もあったという。湯立神事。この旅の最後に、遠山郷の霜月祭で見るつもりだったものと同じ言葉が、思いもしなかった場所で出てきた。
藤谷さんは一度この土地を離れている。静岡県の磐田市に移り、企業に勤めた。それから30年以上経って、大沢へ戻ってきた。なぜ戻ってきたのか。
「この景色がやっぱり好きでね。人の付き合いもいいし、磐田よりこっちのほうが住んでいても落ち着くんです。気がやすらぐというか。一人でもぜんぜん寂しくないんですよ。人が減って空き家が増えたので、ここの村の魅力を体験してもらいたくて宿をはじめたんです」

宿には、一冊の小さな冊子が置かれていた。藤谷さんの叔父さんが、大沢で使われてきた方言を集めてつくったものだった。ページをめくると、この土地で使われてきた言葉が並んでいる。
土地を離れる人が増え、新しい世代がいなくなれば、日々の暮らしの中で交わされてきた言葉も、少しずつ使われなくなっていく。ただ、叔父さんが残そうとしたのは、単に昔の方言を集めた記録ではなかった。冊子の「はじめに」には、方言とは長い歴史の中で育まれてきたものであり、村人たちを結びつける絆でもあった、と書かれていた。
僕はこの旅に出るまで大沢という集落を知らず、宮本の本の中で名前を目にしただけだった。その名前をたよりに実際に来てみれば、わずか4世帯になった山の上の集落に、失われていく言葉を書き残した人がいて、30年ぶりに戻って宿を始めた人がいた。
沢沿いの新たなルートを発見
翌朝。まず最初に目指すのは青崩峠だった。普通なら一度水窪の町へ戻り、国道152号を北へ向かう。
当初は、僕もそのつもりだった。しかし前夜、布団の上で何となく、「みさくぼ交流所」で入手したマップを開いていたら、一本のルートが目に入った。沢沿いから山へ入るルートだった。国道を使わずに青崩峠の手前まで抜けられる。こんな道があったのか。
行ってみたい。そう思って急遽ルートを変更することにした。こういうのが、僕が今回試したかった歩き方なのかもしれない。あらかじめ決められた一本の線を忠実になぞるのではない。土地へ入り、そこで拾った情報によって次の道ができる。歩くほどに旅が変わっていく。

宿を出て二時間ほど舗装路を歩き、林道堀切線の近くから沢へ入った。入口に木の看板がある。「タル沢渓流 青崩峠へ」。かすかな沢音だけが聞こえる。人はいない。踏み跡も薄い。二本の巨大なトチノキ「夫婦トチ」が現れた。さらに大岩と呼ばれる巨岩を越える。その先も沢は静かだった。
沢を抜けると駐車場に出た。そこから少し登る。そして、ついに青崩峠(標高1,082m)に着いた。静岡県と長野県の県境。かつての遠江国と信濃国の国境である。峠には祠や石碑があり、案内板が立っている。そこに記された歴史を読む。

「戦国時代には武田軍が越えた。遠州から塩や海産物を運ぶ人が越えた。信州から物を運ぶ人も越えた。秋葉山へ向かう人が越えた。近代になると、製糸工場へ働きに行く若い女性たちも越えた」
武将だけではない。歴史に名前を残さなかった人たちが、何百年もここを歩いている。僕が立っている場所は、単なる県境ではなかった。
目の前に神がいる

峠から山を下り、遠山郷の此田(このた)集落へ向かった。この日の宿は「民宿このた」。女将さんに話を聞いた。
此田も高齢者ばかりだという。女将さんはかつては農業をしながら学校の給食センターでも働き、その後民宿を開いた。脚を痛め、一時は宿の予約も受けていなかったが、治療を経てまた旅人を迎えるようになった。話を聞いていると、この集落の大野田神社でも、以前は霜月祭が行なわれていたという。しかし、過疎化、高齢化によってつづけられなくなったそうだ。
大沢集落で聞いた、無くなった湯立神事。此田集落で聞いた、無くなった霜月祭。歩いてきた先々で、祭の痕跡が現れる。そして今夜、隣接する和田集落の和田諏訪神社で霜月祭が行なわれる。

夜、神社へ向かった。とても寒かった。山間部の12月。気温は氷点下まで下がっていた。足早に鳥居をくぐり社殿の中に入ると、途端に熱気に包まれた。
中央には竈(かまど)が組まれ、大きな湯釜からもうもうと湯気が立ち上っていた。その上の湯桁には無数の切り紙が垂れ下がっている。その数は61。還暦を越えてもう一度生まれ直す「よみがえり」を意味するという。

祭は、その湯釜を中心に進んでいく。外は氷点下なのに、ここだけが異様に熱い。火が燃え、湯気が立ち、人が舞う。面が現れるたびに空気が変わり、夜が深くなるほど、祭全体が何かに取り憑かれたように熱を帯びていった。そこに神がいる。そんなことを初めて思った。
そのとき、参加したい人はこちらへ来て面を被ってください、と祭の関係者から声がかかった。一瞬、意味がわからなかった。観衆に向けて言っているのか? まわりを見ると、祭を見に来ていた何人かが準備を始めている。面を渡され、それを被る。そして祭の中へ入っていった。
もっと閉ざされた祭だと思っていた。何百年もつづいてきた神聖な祭に、氏子でもなければこの土地に暮らしているわけでもない、今日たまたまここへやって来た人間までもが参加することができる。
僕も、せっかくここまで来たのだから参加してみたい気持ちはあった。でも、足が出なかった。さっきから僕は、目の前で行なわれていることに、これまで感じたことのないほどの神聖さを感じていた。畏れ多い。そういう感覚だった。祭の側は僕を拒んでいない。でも、僕のほうが境界を越えられなかった。
もし僕が車で遠山郷へ来てこの祭だけを見ていたら、同じように感じただろうか。霜月祭そのものが圧倒的な祭であることに変わりはない。でも、この夜の僕は、3日前の僕とは少し違っていた。
秋葉山の常夜灯の間を歩いた。「一杯水」で昔の旅人を思った。雪につかまり山中で一夜を明かした。オオカミを祀る山住神社へ立ち寄った。古道を下り水窪で塩の道を知った。8軒の集落で消えていく方言を書き残す人の言葉に触れた。偶然手にした地図を頼りに人のいない沢へ入った。そして青崩峠を自分の足で越えてきた。
3日間、歩いて前へ進みつづけた。その間に触れた、この土地の歴史や暮らしや信仰。それらはもはや知識ではなく、ひとつひとつが体験として蓄積され、身体に刻まれていた。歩いた時間だけ、その土地が少しずつ自分の中に入ってくる。そして深く知れば知るほど、そこにあるものへ軽々しく触れることができなくなっていったように思う。
霜月祭は、そんな3日間の先に現れた。だから僕には、それをただの見物対象として見ることも、その中へ簡単に足を踏み入れることもできなかったのかもしれない。

自分の旅を歩きながらつくる
前回、僕は「どうすれば歩きたくなるのか」と書いた。この旅を終えた今なら、ひとつだけ言える。日本には、すでに無数の道がある。古道もある。街道もある。登山道もある。名もない沢沿いの踏み跡もある。それらを新しく一本のロングトレイルとして整備し、名前をつけなければ、歩き旅ができないわけではない。
先に、自分が知りたい土地を見つければいい。会いたい人、見たい祭、気になる山、食べたいもの……そこに自分なりの理由を置いて歩いてみる。
途中で面白そうな道を見つけたら、それを選べばいい。歩く速度で土地に触れていけば、出発前には想像もしなかったものが次々に現れる。町で偶然拾った一枚の地図が、翌日の道を変えることもある。
泊まった山村で、そこにかつてあった祭を知ることもある。そして祭を見に行けば、何百年もつづく神事の側から、「あなたもどうぞ」と招かれることだってある。
旅を出発前に完成させる必要はない。むしろ、完成させないほうが面白い。
ただ道を歩くのではない。自分の旅を歩きながらつくっていく。
僕が日本でやってみたかった歩き旅とは、たぶん、こういうものだったのだろう。
根津 貴央Takahisa Nezu
ロング・ディスタンス・ハイキングをテーマにした文章を書き続けているライター。2012年にアメリカのロングトレイル『パシフィック・クレスト・トレイル(PCT)』を歩き、2014年からは仲間とともに『グレート・ヒマラヤ・トレイル(GHT)』を踏査するプロジェクト『GHT project』を立ち上げ、毎年ヒマラヤに足を運ぶ。著書に『ロングトレイルはじめました。』(誠文堂新光社)、『TRAIL ANGEL』(TRAILS)がある。2025年4月ネパールに移住。現在、カトマンズ在住。